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相撲 / Sumo
2026.06.30 — 相撲

移りゆく土俵 ― 乙亥大相撲が歩んだ場所

百七十年あまり続く乙亥大相撲。前に、その始まりの物語をお話ししました。今回は少し角度を変えて、「土俵がどこにあったか」――開催場所の移り変わりをたどってみたいと思います。

場所の変遷を追うと、不思議とこの町の歩みそのものが見えてきます。そして私自身、その土俵のいくつかに、力士として立ってきました。

はじまりは、神社の境内

乙亥大相撲が最初に奉納されたのは、三嶋神社の境内だったと言われています。火を鎮める祈りとともに始まった相撲は、まず神さまの前で取られたのです。

田んぼの特設会場と、十五万人

記録が残るところでは、昭和の初め、緒方酒造の横の田んぼに作られた特設会場で開催されていました。

当時、小学生だった方から、こんな話を聞いたことがあります。観覧席は、板を斜めに張って組んだ仮設のもの。あまりに多くの人が詰めかけて、子どもだった自分はその席に入れず、板の下に潜り込んで、すき間からこっそり見ていた――と。

新聞には、二日間で十五万人もの観客が訪れたという記録も残っています。小さな町に、十五万人。今でいえば、有名アーティストのライブ会場のような熱気だったのかもしれません。乙亥は、それほどまでに人を惹きつける一大行事だったのです。

移りゆく、土俵

その後、土俵はいくつもの場所を移っていきます。

・一九六八年(昭和四十三年)、旧野村児童館前のグラウンドへ。

・一九七三年(昭和四十八年)からは、野村公会堂前の広場で。

・さらに、野村公会堂の屋内や、公会堂前のテントでも開かれました。

私が乙亥の土俵にはじめてあがったのも、この頃でした。野村公会堂前のテントでは小学生・中学生の部として土俵の上で相撲を取ってきました。

・一九九五年(平成七年)からは、旧野村児童館グラウンドに大型テントを立てて。

じつはこの大型テント、サーカス団が使っていたものを購入して、毎年立てていたのだそうです。立派なテントだったぶん、強風にあおられて危険なこともあった、という話も聞いています。

乙亥会館の誕生

二〇〇五年(平成十七年)、乙亥大相撲のための施設「乙亥会館」が開館します。以降、乙亥はこの会館で開かれるようになりました。専用の場所を持てたことは、長い歴史のなかでも大きな節目でした。

そして、災害を越えて

ところが二〇一八年(平成三十年)七月、西日本豪雨が、この町を襲います。乙亥会館も被災してしまいました。

その年と翌年の二年間、乙亥は野村公会堂の屋内で開催されました(その公会堂も、二〇二一年に取り壊されています)。

災害の直後に、相撲を開催してよいのか――。責任者の方々の胸には、大きな苦悩もあったと聞きます。それでも、灯を絶やさなかった。私自身、この被災後の野村公会堂の土俵にも、一般・青年の部として上がりました。あの状況のなかで土俵に立てたことは、今も忘れられません。

その後、乙亥会館はふたたび開催の場となり、今日まで続いています。

場所は変われど、続いていく

神社の境内から、田んぼの特設会場、グラウンド、テント、そして乙亥会館へ。土俵の場所は、時代とともに変わってきました。けれど、変わらないものがあります。それは、この相撲を絶やすまいとする、町の人々の想いです。

さまざまなアクシデントを乗り越えて、乙亥大相撲は、今も野村の誇りであり、シンボルであり続けています。

ゼロの番人として、私もこの土俵を、次の世代へつないでいきたいと思っています。いつかまた、誰かが板の下からのぞき込みたくなるような――そんな乙亥であり続けますように。

ZEROSPHERE / ゼロの番人

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