西日本豪雨と、支えてくれた人たち
災害は、どこか遠い出来事だと思っていました。自分の身に降りかかるなんて、考えたこともなかった。でも――平成三十年の七月、それは現実になったのです。
七月七日の朝
平成三十年(二〇一八年)七月七日の早朝、肱川(ひじかわ)が氾濫しました。記録的な大雨で、野村ダムは毎秒およそ一八〇〇トンという緊急放流を行い、短い時間のうちに、野村町の中心部は水に沈みました。
現実か、夢か
家には、住めなくなりました。電気も、水道も止まる。携帯もつながらない。
避難所には人が殺到し、これが本当に現実なのか、それとも夢なのか――誰もが、わからないような状態でした。
(災害の直後のことは、また別の機会に書きたいと思います。今日いちばん伝えたいのは、そのあとのことです。)
支援は、想像以上だった
打ちのめされた野村に、たくさんの手が差し伸べられました。その支援の体制は、私が想像していたよりも、ずっと多岐にわたっていました。団体、自治体、企業、学術機関――本当に、さまざまな人たちが入ってくださったのです。
それぞれの得意を、持ち寄って
・危険な現場で土砂を取り除く、最前線で体を張る団体や、自衛隊。
・子どもたちの学習を支える団体。
・支援物資を、必要な場所へつないで届ける団体。
・避難所の運営を支える、自治体。
・そうしたさまざまな団体を、ネットワークでつなぐ団体。
それぞれが、自分の得意な分野で力を発揮し、まるで一つの大きな体のように、野村を支えてくれました。本当に、すごい体制でした。
一人じゃなかった
一人では、とても立ち向かえない。でも、これほど多くの人が、縁もゆかりもない土地のために動いてくれる。その事実に、どれだけ勇気づけられたことか。「災害は他人事」と思っていた自分が、恥ずかしくなるほどでした。
失ったものは、小さくありません。それでも、あのとき差し伸べられた、たくさんの手を、私は忘れません。
ゼロの番人として、この経験を――受けた恩も含めて――書き残していきたいと思います。そして、この復興の中から生まれた新しい動きのことも、次に綴っていきます。
ZEROSPHERE / ゼロの番人