ZEROSPHEREJOURNAL ← 一覧へ
養蚕 / Hatch
2026.08.02 — 養蚕

糸を繰る、まちの女性たち ― 東宇和蚕糸の物語

前回、野村の絹が英国女王の戴冠式へ渡った物語を書きました。今日は、その絹を実際につくった——工場と、そこで働いた人々の話です。

繭は作れても、高く売れなかった

野村の養蚕は、明治の初めに始まりました。桑を育て、蚕を飼い、繭をつくる。けれど当時、繭はあまり高く売れませんでした

繭を宇和町や大洲の市場まで、馬車や人力、あるいは肱川を筏(いかだ)で下って売りに行く。ところが、仲買人にたたかれ、養蚕農家の収入は不安定なまま。「せっかく良い繭を作っても、報われない」——そんな悔しさが、まちにありました。

だったら、自分たちで糸をつくろう

その窮状を見かねた有志が立ち上がります。「繭を売るのではなく、自分たちで生糸をつくろう」と。

こうして地域で組合をつくり、昭和8年(1933年)、製糸工場を設立しました。「野村の繭から、生糸を」——長年の悲願が、ついにかなった瞬間です。これにより、養蚕農家の経営は飛躍的に安定していきました。

250人の、多くが女性だった

この工場、最も多いときで250名もの人が働いていたといいます。そして——その多くが、女性でした。

写真の集合写真を見てください。「東宇和蚕糸農業協同組合」の看板の前に並ぶ、たくさんの若い女性たち。昔のことですから、中学を卒業したばかりの少女も多く働いていました。糸を繰る繊細な仕事は、女性たちの器用な手に支えられていたのです。

工場に、高校の分校があった

驚くのはここから。働く女性たちは、向学心が高かったのでしょう。なんと、この工場には野村高校の分校があったというのです。

昼は工場で糸を繰り、その傍らで学ぶ。手に職をつけながら、学問への志も失わない。厳しい時代のなかで、「働きながら学ぶ」場が、この製糸工場にはあったのです。

番傘と、慰安会と

福利厚生も、当時としては驚くほど充実していました。数多くの社員旅行、毎月の誕生会、芸能発表会……。

写真に残る昭和17年の慰安会を見てください。着物に身を包み、色とりどりの番傘を手にした女性たちが、ずらりと並んでいます。楽器を手にした人の姿も。戦時下の、決して楽ではない時代。それでも、こうした華やかな催しが、働く人々の心を支えていたのでしょう。写真からは、まちの産業を担う活気と誇りが、はっきりと伝わってきます。

皇族も訪れた、まちの誇り

その名声は、皇族の目にもとまりました。高松宮殿下が、この糸業を御視察に訪れたのです。日の丸と「奉迎」の垂れ幕に迎えられ、殿下が工場を歩かれる——。山あいの町の製糸工場が、それほどまでに認められていた証です。

野村の絹は、カメリアの商標で世界へ羽ばたきました。けれど、その輝きの陰には——糸を繰った女性たち、学びを求めた少女たち、まちを支えた大勢の人々がいました。彼女たちの手が、確かにこの町の絹の時代を、つくっていたのです。

ZEROSPHERE / ゼロの番人

関連する記事